子供にワーキングプアを容赦なく裁かせる授業


小学校〜大学で人生のケーススタディの授業を本格的に導入してみてはどうだろうか。


ワーキングプアの人、カフェの店主、サラリーマンなどの、リアルな普通の人々の人生における様々な目論見、状況変化、対処を、シビアに分析して徹底討論する授業をするわけだ。
欧米のビジネススクールで、企業のケーススタディーの授業があるが、あれの人生バージョンだ。


そもそも、ホームレスやワーキングプアの人たちへの救済策がなかなか進まないのは、人々の無知と偏見に起因するところがある。
しかし、「怠けてるからワーキングプアになったんじゃないの?」ということを言う人に対して、「偏見だ」「神経を疑う」「強者の屁理屈だ」と、人格非難によって、疑問そのものを封じ込めたところで、偏見はなくならない*1


一方で、「ワーキングプアは構造問題だ」というテレビ番組の主張に対する「本人はやることやったの?」という疑問に対して、「それは構造問題なんだから、本人の責任を問うのは云々」というような頭の悪い水掛け論をしても、やはり偏見はなくならない。



もし、ワーキングプアへの偏見を本気で取り除きたいなら、現実の具体的なケースを、一切のタブーなしに、徹底的に討論することが、もっとも効果的ではないだろうか。


そうすれば、ワーキングプアの人が本当にバカでマヌケで怠け者だったために、ワーキングプアになってしまったことがバレてしまうが、同時に、それが仕方がなかった部分も明らかになる。
そして、同時に、世の中で、勝ち組と言われている人たちも、バカでマヌケで怠惰で、そのうえ卑怯なことをしているのも明らかになる。
これらにより、単に「無策や怠惰だから全て自己責任なのだ」という単純な議論などできないことが理解されるだろう。


さらに言うと、同じ勝ち組の中でも、やるべきことをやって勝ち組になった人と、単に時代の流れで運良く勝ち組になった人もいるし、同じ負け組でも、やるべきことをやってそうなった人と、やるべきことをやらなかったからそうなってしまった人がいることを知るだろう。
ワーキングプアの人にも、いろいろな人がおり、それらを一緒くたにしにして論じることの愚かさが理解されるだろう。


そして、いざ、それらのケーススタディーと照らし合わせながら、自分の人生のシミュレーションをさせ、それを発表させて、その現実性を容赦なく討論させれば、単に普通に生きていくだけのことが、どれだけ大変なことかを思い知るだろう。
自分にワーキングプアの人の人生を裁く資格などないことを思い知るだろう。



この人生のケーススタディー授業は、全授業時間の20%をこの授業に割り当てるぐらいの勢いでやるイメージだ。
実際の現場の社会人を、講師として迎えて、講演させたりもする。場合によっては、講師と討論させる。


当然、がんがんディベートさせる。
その人は、その状況で、他にどのような選択肢を取り得たか?
正しい選択肢をとれたのはなぜなのか?
誤った選択肢を取ってしまったのは、なぜなのか?
そのとき、その人は的確な判断できる体調・状況にあったのか?最悪の体調でも、少ない時間でも出来た判断なのか、そうじゃないのか?
そもそも、それを誤った選択肢と考えていいのだろうか?価値観の問題に過ぎないのではないか?あるいは、単に結果的に運が悪かっただけではないのか?
それは、社会の構造変化だから、どうしょうもなかったのか?
でも、社会の構造変化にもちゃんと対応した人もたくさんいる?
そもそも、社会は変化し続けており、それに対応し続けるのは当たり前なのか?
このケースでは、対応不能なほどの変化だからしょうがないのか?

そして、行き詰まった状況に陥るのはなぜなのか?どこまでがその人個人の責任で、どこからが周囲の人の責任で、どこからが自治体や政府の責任なのか?
どのような人を救済すべきで、どのような人は救済すべきではないのか?
救済する社会システムを作るとして、どのようなシステムは作るべきで、どのようなシステムは作ってはいけないのか?


また、成功したなら、なぜ成功したのか?
それは、本当に成功と呼べるのか?それは単に価値観の問題なのか?
そのような成功によってもたらされた収入のうち、どのぐらいの割合を社会に還元させるべきなのか?それはなぜなのか?その正当性はどこにあって、どこにないのか?
社会的に受け入れられるべき成功と、そうでない成功は、どこが境目なのか?


そもそも、どのような人が報われる社会にすべきなのか?逆に言えば、どのような人は、報われなくても自業自得とするのか?
日本をそのような社会にしたとして、日本は国際社会の中で生き残っていけるのか?国のリソースをどこまで福祉に割り当てたとしても、国際競争力を維持できるのか?そもそも、国際競争力など、維持しなくてもいいのではないか?


そしてさんざん他人の人生を裁かせた後に、「じゃあ、次はおまえの人生シナリオを描いて見せろよ。」という。
そんなけでかい口を叩いたんだから、よほど考えぬかれたご立派なシナリオが書けるんだろうな、というわけだ。
自分は、どのような人生を歩みたいと思っているのか?そのビジョンやシナリオは、各事例と照らし合わせて、どこまで実現性があると言えるのか?その根拠はなにか?その根拠の妥当性はどのくらいあるのか?
そして、そのシナリオが行き詰まった時に、どのような対策を用意しておくのか?その対策は、なぜそれで十分だと言えるのか?
十分な対策を施さないという戦略を敢えてとるとして、そのリスクを犯すことと引き替えに、具体的に何を得られるのか?それは、そのリスクに見合ったリターンなのか?


将来、自分が自由な選択をでき、自由に生きることが出来るようにするには、今、どのような勉強をし、どのような知識とスキルを身につけておくべきなのか?


結局、容赦なく他人と自分の人生を直視し、容赦なく他人と自分の人生を裁くことを徹底的にやらせれば、無知や偏見というものは、かなり解消されてしまうものではないだろうか。


*1:が、非難する人は、そんなことは、気にならない。なぜなら、こういう「偏見だ」「神経を疑う」と他人を非難する人間の真の目的は、自分が正しく良い人間であることを周囲の人間に認めさせ、かつ、正義の名の下に、どうどうと他人を踏みつけにして、自分が優位に立っている快感を味わうことだからだ