まっとうな理屈の通じない女性と良好な関係を築く方法


みなが納得するようなフェアな道理を筋道立てて女性に説いて、上手くいかず、
女は非論理的だ
とか、
女は愚かだ
と結論づける男性をときどき見かけます。


しかしこういうとき、
間違っているのはたいてい男の方
なのです。


男と女が揉めるのは、たいてい利害と感情の調整が上手くいっていないときです。


そしてそのとき男性が、その利害と感情のこじれを修復するために持ち出す理屈というのは、
「みなが納得するようなフェアな道理」
です。


男ってバカですねー。


そもそも道理というものは、長い人類の歴史のなかで、利害と感情の調整をするために生まれ、使われてきたものです。
利害と感情が完全に調整されていれば、そもそも道理などというものは必要ないのです。


多くの社会人男性は、職場や取引先でたくさんの人間の思惑、感情、利害が複雑に絡み合った状況を乗り切るために、
「誰もが納得せざるを得ないような、筋道だったまっとうな理屈」
を作り上げ、それを駆使して世間の荒波を生き抜こうと試行錯誤し、失敗や成功を重ね、
その道理の感覚が正しいことに対する自信を深めていきます。
こうして、社会正義というか、いわゆる「フェアな道理」の感覚を内面化していくわけです。


ところが、上司と部下との板挟みになって利害や感情の調整に日々苦しんだ経験もなく、
取引先とタフに交渉して自分のプロジェクトの都合を十分に認めさせながら、
良好な関係を維持するという難事業をやるために知恵と勇気を振り絞る毎日を送ったこともないまま、
結婚し、家庭に入った女性にとっては、そもそも、
そんな「集団の利害と感情を調整するための理屈」など、知ったことではありません
だって必要がないのですから。


もちろん、男性の感覚における「まっとうな理屈」に乗ってくれる女性もいます。
たとえば、やり手の中間管理職で、顧客企業やパートナー企業と良好な関係を築くことのできている女性は
多くの場合「まっとうな理屈」が通用します。


また、たとえY染色体を持っていても、過酷な利害調整業務に疲弊したことがあまりない
世間知らずのおぼっちゃまな男性や、そもそもそういう調整が下手くそで
会社でうだつの上がらないような男性にも、男性の論理における「まっとうな理屈」など通用しません。


ある種の女性がこういう、「必要のない感覚」を持っていないのは当たり前だし、
そういう人に対して男性の論理における「まっとうな理屈」を振り回す男は、
単に愚かであるばかりでなく、女性に対して理不尽な屁理屈を押しつけていることになるわけです。


社会人経験が浅いまま結婚して家庭に入った女性が生きている世界は、
もっと小さくてフラットな世界です。
そもそも、過酷な職場で働く男性の世界は、自分の一つ一つの意志決定が、
地位、権力、お金をリアルに左右する、ちょっと間違うだけで、取り返しのつかないほどの
大出血になってしまうような、シビアな利害関係の世界です。
そこでは、絶対零度と灼熱地獄がとなりあわせな過酷な環境を突き進むスペースシャトルの理屈が適切ですが、
専業主婦の女性が、ご近所づきあいの中で行わなければならない利害関係の調整は、
それほど安易なものではないかも知れませんが、少なくともそれとはかなり異質なものです。
そこに男性の論理を持ち込んで通用しないと愚痴るのは、
スペースシャトルのエンジン部品を軽自動車に取り付けて、うまく動かないと嘆いているようなものです。

ましてや、「軽自動車の部品よりも、スペースシャトルの部品の方が「高級」な部品なのだから、それで軽自動車の性能が上がるはずだ」などという勘違いした理屈をこく男性などは、ほんと(ノ∇`)アチャーという感じです。


そういう女性の小さな世界で必要とされるのは、「道理」ではなく、もっと別の方法です。


とくに家庭のような「小さな世界」では、利害関係が生じる人間の数など
たかが知れていますから「みんなが納得するような道理」など必要ないし、
むしろ不適切なのです。


そもそも、なぜ「みなが納得するような道理」が必要となったかというと、
組織が大きく複雑になり、利害関係があまりに複雑になると、
個別に利害調整するのはコストが大きくなりすぎるからです。


そういう状況では、できるだけ多くのケースに適用できる
「普遍的な公正さ」というものを作りだし、それを使い回すことで、
利害調整の生産性を上げるわけです。
というか、そうやって利害調整を効率化しないと、利害調整ばかりに追われて、
仕事どころではなくなってしまうのです。


ところが、人間の数が限られ、したがって利害関係の複雑さも限られている
家庭のような小さな世界では、利害関係の調整は個別対応ができます。
それどころか、十分な人間の数がいないと、サンプル数が十分でないため、
普遍的な公正さを醸成するには、無理があるのです。


だから、家庭のような小さな世界には、男性が職場で培った「みなが納得するような道理」など
持ち込んでも通用するはずがないし、また、持ち込むべき正当な理由もないのです。


それでは、「みなが納得するような道理」を使わずに、
「個別対応で利害を調整」するには、どうすればいいのでしょうか?


それにはまず、男性は「普遍的な道理に照らし合わせて、どのようなことが正しいのか?」
と無意識に考えてしまうことをやめなければなりません。


そして、「どのようにすれば、結果として個別具体的な誰がどれだけ得し、損するのか?」
「どのようにすれば、結果として、個別具体的な誰がどれだけ感情的に気分が良くなるのか?」
という個別具体的なことだけに、全意識を集中するのです。


そして、女性との関係が良好なときにこそ、女性と「対決」しておくのです。
どんなに蜜月な関係であっても、「対決」をしないと人間関係は腐敗します。


良好な人間関係をたもつために、言うべきことを言わないでおくと、どんどん関係が腐敗していくのです。


「対決」はケンカとは異なります。
それよりもむしろ、「交渉」に近いニュアンスです。


むしろ、「対決」とは、将来の揉め事や不快の芽をあらかじめつぶしておくために、
ものごとがこじれる前に、早期に「決着」をつけておくことです。


男女の揉め事の多くは、対決すべき時に対決する勇気を男性が持たなかったために生じているのです。


女性が、知らず知らずのうちに妻という地位=既得権益のうえにあぐらをかくようになり、人格が腐敗していくケースの多くは、男性の責任も大きいのです。


そういう、いかにも女性的な人間関係の調整には自信がない、
どうしても女性に男性の論理における道理にかなったやり方をしてもらいたい男性は、
利害調整にできるだけ多くの第三者を巻き込むようにするしかありません。
なぜなら、女性が(男性の論理において)どんなにデタラメに理不尽なことを言っていても、
その女性と二人だけで言い争っている場合、どちらが正しいのかなど、決まるわけがないからです。


正しさを作り出し、また、正しさが現実に力を持つのは、
容易に切り離せないほど深く関わるたくさんの人間がいて、その人間たちの
多くがその正しさを支持するからです。


水の入ったバケツを振り回したときに、バケツから水がこぼれないのは、遠心力が生じるためですが、
もし、宇宙に自分とそのバケツしか存在しなければ、バケツが静止したまま自分と宇宙全体が回転しているのか、
それとも自分と宇宙が静止したまま、自分がバケツを振り回しているのかは、区別がつきません。


ですから、そういう状況では、どんなに必死こいてバケツを振り回しても、遠心力が生じるかどうかは定かではありません。
遠心力が確実に生じるのは、我々をとりまく無数の星や銀河があるからだという理屈があるわけです。


これと同じように、男性がもつ「みなが納得するような道理」が通用するのも、
「みながいる空間」においてだけなのです。
二人しかいない空間では、どんなに正しい理屈をこねても、まったく不毛なのです。


だから、どうしても男性の論理で女性を説得したければ、二人しかいない空間ではなく、
周囲に星や銀河がたくさん広がっている宇宙に女性を連れ出して、
そこで女性を説得するべきなのです。


そして、どうしても家庭生活にまで「みなが納得するような道理」を持ち込みたい男性は、
はじめから、星や銀河が広がっている宇宙から来た女性と結婚するという方法があります。


要するに、職場で中間管理職として上司とも部下とも取引先とも良好な関係を築いてきた
実績のある女性と結婚すればいいわけです。


また、社会人経験の浅い若い女の子と結婚するときは、
根気よく男性の論理が通用する人間に育てていかなければなりません。


そのどちらもできない場合、男性の論理が通用しないことをはじめから覚悟し、
「女性の個別対応の論理」に自分を合わせるしかありません。


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